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妙本寺

総門(そうもん)

総門(そうもん)

比企谷幼稚園児の元気な声がいつも聞こえる園舎の横に建つのが、妙本寺境内の入口、総門です。現存する総門は大正12年(1923)9月1日の関東大震災で倒壊したものを大正14年に再興した門です。時の司務職第67世田中日肝聖人(住職は池上本門寺第71世日筵聖人)は生来病身でありましたが、愛山護法の信念に支えられて、寺域整備、山内植樹、堂宇営繕に努められました。また、総門前の石塔は天明5年(1785年)に現在の場所に移転されたもので、本来は境内の祖師堂前にあったものです。石塔に刻まれている文字は第二十五世守玄院日聖人の筆蹟であり、ここが宗門最初の寺院であるという意味です。「賜紫」とは江戸時代、徳川将軍家から紫色の衣の着用の許しをもらったことを意味します。因みに、古くは僧侶の紫衣着用には朝廷の許可が必要でした。また、余談ですが、当時の記録などを見ると紫衣の紫は深い紫色で「あずき色」に近かったようです。

蛇苦止堂(じゃくしどう)

蛇苦止堂(じゃくしどう)

蛇苦止堂は比企谷妙本寺の守り神(鎮守)蛇苦止明神(じゃくしみょうじん)を祀るお堂です。比企能員の娘、讃岐局が2代将軍 頼家公の側室となり、一幡(いちまん)之君を授かり、将軍家の外戚関係になった時から北条一族は比企一族を最大のライバルとして敵視し、ついに建仁3年9月2日、党首能員をはじめ、一族郎党は北条家の手にかかって討ち滅ぼされました。讃岐局、一幡之君もこの比企谷の地で火攻めに遭い、讃岐局は池(一説には井戸)に身を投げ、一幡之君もまた六歳の幼さをもって焼死しました。妙本寺の境内にひっそりとたつ五輪の塔は一幡之君の着衣の袖を供養したものと伝えられています(一幡之君袖塚)。そして、この乱より50年ほど後、北条政村の娘が何かに取憑かれて座敷をのたうち回り苦しみ、「北条家に恨みがある。わらわは讃岐局。今は蛇身を受け、比企谷の土中で苦しみを受けている」と語りました。讃岐局の弟にあたる比企能本は日蓮聖人に救いを求め、日蓮聖人は、讃岐局の怨霊を法華経の功徳を以て成仏せしめ、蛇苦止明神と名付けて祀りました。それ以来、今も毎月1日(正月は2日)に例祭をつとめ、信徒と共に法華経読誦唱題が続けられています。

寺務所・書院(じむしょ・しょいん)

寺務所・書院(じむしょ・しょいん)

旧寺務所・書院は江戸末期の建物だったそうですが、大正12年9月1日の関東大震災で倒壊しました。昭和7年に再建されたのが、現存する寺務所と書院です。この再建には、昭和16年に第75五世貫首に就任された島田日雅聖人と、当時の檀信徒一同の尽力がありました。書院は、春秋彼岸会、施餓鬼会などの年中行事や年忌法要の控室として、また、写経、研修会等様々な催しにも活用されています。ご朱印やお守・お札の授与・墓参用の線香もこちらで承っております。

本堂(ほんどう)

本堂(ほんどう)

本堂とは、本尊を安置するお堂の総称である。現存の本堂は昭和6年、第75世 日雅聖人の代に建立された建物である。正面に久遠実成の本師釈迦牟尼佛を、その両脇には末法の世における法華経流布を誓われた本化の四菩薩(上行・無辺行・浄行・安立行)を安置し、その前に末法の世の導師であり、日蓮宗の開祖である、日蓮聖人の座像を安置する。また、正面脇には法華経行者守護を誓われた鬼子母神・十羅刹女・徳叉迦を祀る。正面の釈迦像は蓮台(蓮の花弁の台座)に坐し、法界定印(手を重ね、両手の親指を付ける)を結び、宝冠をつけたやさしいお顔の像である。そして、釈迦像の背銘を見ると、延宝5年(1677年)、第22世日玄聖人の代に中川佐渡守久恒が大願主となってつくられたことがわかる。中川佐渡守久恒は豊後岡藩(現在の大分県)の第4代藩主であり、長寿院妙応日慶霊位の菩提を弔うためにこの釈迦像を造立している。また、4月8日には桜や海棠が咲きほころぶ中、お釈迦様の誕生を祝う花祭り法要が本堂前にて行われ、参詣者に甘茶が振る舞われる。

歴代廟(れきだいびょう)

歴代廟(れきだいびょう)

妙本寺歴代の住職の墓所である。当山の歴代墓所は、第78世 常生院日聰聖人の代(平成5年12月14日)に現在地に移転されたものである。妙本寺は今では静かな佇まいの寺だが、日蓮聖人の教え・法華経の教えはここから全国へ弘まっていったといっても過言ではない程重要な拠点であった。そもそも妙本寺は御開山日蓮聖人以来、代々池上本門寺と妙本寺を一人の住職が兼務するという両山一首制をとり鎌倉時代以降、代々の貫首(住職)は妙本寺に住んで、池上本門寺は、大坊本行寺住職が寺務を取り仕切るという形であったが、天正18年(1590年)8月に江戸城に入り関東を支配するようになった徳川家康は、同年12月、両山第12世 日惺聖人に池上本門寺に常住するように命じた。これより後、妙本寺は、本行院住職を司務職(貫首名代)として法灯を守り伝えてきた。そして、昭和16年、第74世 酒井日慎貫首の代に、妙本寺末寺のかねてからの強い要請に国の宗教行政の変革が追い風となって、島田勝存師(一信院日雅聖人)が第75世貫首の座に就かれた。

鐘楼堂(しょうろうどう)

鐘楼堂(しょうろうどう)

梵鐘をつるし、寺の重要な行事の開始を近隣に知らせたり、また、時を告げる鐘を突くお堂、通称鐘突堂などとも言う。当山の鐘楼堂は、第75世 一信院日雅聖人の代に再建された。大正12年9月2日の関東大震災により、祖師堂、二天門を除くほとんどの建物が倒壊し、その後、檀信徒の護持丹精により順次復興し、昭和6年本堂落慶、翌7年に書院落慶。そして昭和九年にこの鐘楼堂が落慶を迎えた。妙本寺には古来より鐘楼堂があり、そこには江戸幕府第五代将軍徳川綱吉公寄進の梵鐘がつるされ妙音を響かせていたという。妙本寺は御開山日蓮聖人以来、代々池上本門寺と妙本寺を一人の住職が兼務するという両山一首の制をしいていたが、第22世 妙悟院日玄聖人の代(1673〜1704年)に、綱吉公が池上本門寺五重塔修理の浄財を寄進され、その残余金と檀信徒の寄進により梵鐘が造立されたという。残念ながら、その梵鐘は第二次世界大戦の際に供出されたが、昭和35年、第76世 文妙院日威(日如)聖人代に復興し、日々朝夕に妙音を響かせている。

方丈門(ほうじょうもん)

方丈門(ほうじょうもん)

この門をくぐって60段ほどの石段を上ると、本堂、寺務所があります。方丈門付近では、サルスベリ、酔芙蓉、ツツジなど、四季折々の花が迎えてくれます。石段の両脇には紫陽花があり、6~7月に見頃を迎えます。

上村海軍大将之墓(かみむらかいぐんたいしょうのはか)

上村海軍大将之墓(かみむらかいぐんたいしょうのはか)

上村彦之丞は、海軍軍人であり、司令長官として日清戦争、日露戦争の勝利に大きく貢献した海軍大将です。熱心な日蓮宗の信仰を持ち、この妙本寺に妻・貞子や子等とともに眠っています。
法号は 信妙院殿忠純日彦大居士

源もとよし子之墓(みなもとよしこのはか)

源よし(女ヘンに美)子之墓(みなもとよしこのはか)

鎌倉幕府2代将軍 源頼家公と比企能員の娘 讃岐局との間に生まれましたが、比企の乱で一族が滅ぼされました。生き残ったよし(女へんに美)子は、祖母 北条政子の死後、幕府の中で唯一、頼朝の血をひく者として御家人一同の尊敬を集め、彼らをまとめる役割を果たしました。幕府は政権維持のため、京都から藤原頼経を迎え、4代将軍とし、よし(女へんに美)子は4代将軍の奥方となりました。懐妊しましたが死産で、本人も32歳で死去されました。遺言に「自分はお釈迦様を信仰しているので、亡き後はこのお像をお祀りする堂を造り、供養をしてほしい」とあり、遺言通り釈迦堂が造られました。釈迦堂は、天保年間(江戸末期)に祖師堂前左側に移築され(現存せず)、釈迦堂跡地にお墓が建てられました。

宗祖讃歎之碑(しゅうそさんだんのひ)

宗祖讃歎之碑(しゅうそさんだんのひ)

大正、昭和にわたり活躍した漢学者、塚本柳斉(本名・塚本松之助)先生の詩碑です。鎌倉における日蓮聖人の熱烈な法華経弘教のお姿を讃え、日蓮聖人の息吹が今もなお伝わる妙本寺を訪れる人々に「物見遊山の気分を捨てて法華経信仰に目覚めなさい!」と呼びかけています。

源日蓮聖人説法像(にちれんしょうにんどうぞう)

日蓮聖人銅像(にちれんしょうどうぞう)

日蓮聖人は、貞応元年(1222年)、安房小湊(千葉県小湊)に生まれ、12歳で清澄寺に入り、16歳で出家、仏教諸宗が様々広まっている中で、天変地異や飢餓などで人々が苦しんでいる有様に心を痛め、仏の真実の教えを求め続けて、32歳まで鎌倉諸大寺、高野山、そして比叡山と諸宗の諸大寺に遊学し、遂に「一切衆生を救う教えは法華経である!」との確信を得て、今から七百五十数年前、建長5年(1253年)4月28日、立教開宗の宣言をなされました。日蓮宗の始まりです。日蓮聖人は、当時政治文化の中心であった鎌倉の町の辻々に立って教えを説き、「法華経こそお釈迦さまの真実の教えである!目覚めよ、人々!」とお説きになられました。この銅像は、平成14年、第79世 加藤日暉貫首様の代に日蓮聖人立教開宗750年ならび鎌倉布教750年を記念して建てられました。

仙覚律師之碑(せんがくりっしのひ)

仙覚律師之碑(せんがくりっしのひ)

仙覚律師は天台宗の僧侶で比企一族の人です。寛文4年(1246年)第4代将軍頼経の命により「万葉集」の校訂に着手しました。その場所が、妙本寺新釈迦堂(源よし[女へんに美]子の遺言によって建立された)僧坊で、この研究の成果が「文永3年(1266年)本万葉集」であり、「私達が今、「万葉集」を読むことができるのは、仙覚律師のおかげである」と高い評価を受けています。

二天門(にてんもん)

二天門(にてんもん)

妙本寺の杉木立の参道を抜け、石段を登り切ると、目の前に現れる堂々とした弁柄塗りの門が「二天門」である。門の左脇には大きな楓があり、新緑、紅葉の季節にそれぞれ見事な色どりを添える。また、門は建立時の棟札によれば、天保11年(1840年)、第47世 日教聖人の代に司務職本行院第54世 日恭聖人のもと建立されたとある。門には様々な彫刻が施されているが、中央の龍の彫刻は見事で、平成の大改修で極彩色の色を取り戻し、息を吹き返した。なんでも、2〜3歩後ろで手を拍つと龍が鳴き声をあげるとかあげないとか。また、一般的な寺院に見られる仁王門とは異なり、仏教の守護を誓われた帝釈天に仕える四天王(持国(東)・広目(西)・増長(南)・多聞(毘沙門)(北))のうち、持国天と多聞天を安置してあることから二天門という。持国天は、祖師堂に向かって右側に、多聞天は左側に足下に邪鬼を踏みつけ仏法を守護する構えを見せて祀られている。

祖師堂

祖師堂(そしどう)

日蓮宗の開祖である日蓮聖人(祖師)を祀るお堂。お堂内中央正面の厨子に日蓮聖人を、向かって右脇に日朗聖人、左脇に日輪聖人をお祀りしています。当山の祖師堂は第二祖 日朗聖人建立ののち、第8世 日調聖人が再建し、現在の十二間四面の祖師堂は第47世日教聖人の時(天保年間、約170年前)に建立されたもので、鎌倉では最大規模の大きさを誇るお堂です。祖師堂では毎年、この妙本寺の旧末寺寺院住職が出仕し、千部会(4月13日)、御会式(9月13日)法要が行われ、また比企谷幼稚園の園児達が稚児として参列して佛さまにお花を捧げます。ちなみに、この祖師堂のあたりが、比企谷(ひきがやつ)の地名の由来、比企の尼が住まわれたところであり、「比企の尼」という女人は鎌倉幕府初代将軍源頼朝公の乳母であり、頼朝による開府後、頼朝公は武蔵(現在の埼玉県)の比企郡から尼をここへ招き住まわせました。また、頼朝公の正室北条政子夫人が懐妊すると、尼の許に送り、ここで2代将軍頼家公が生まれたと伝えられています。

一幡之君袖塚(いちまんのきみそでづか)

一幡之君袖塚(いちまんのきみそでづか)

比企能員の娘讃岐局(若狭局)は、2代将軍頼家の側室となり、嫡子一幡君と姫君竹御所を産みました。一幡君の誕生により、比企一族は将軍家の外戚という強い関係になりましたが、権力保持を目論む北条一族の策略により、建仁3年(1203)9月2日、この邸において亡ぼされました(比企の乱)。この乱の折り、讃岐局は池に身を投げて自死。一幡君の小御所も焼かれ、僅か6歳にて火中に命を終えられました。その焼け跡に残った一幡君の小袖を供養するため建てられたのが袖塚です。
法号は 英才儀道芳縁大童子尊霊
※実際の法号では「縁」が旧字

比企一族供養塔(ひきいちぞくのはか)

妙本寺は正式には「長興山妙本寺」といい、この山号寺号は日蓮聖人が直々にお付けになられたと伝えられ、「法華経(妙法蓮華経)」の根本としての寺、そしてその教えが長く興っていく、広く伝わっていくようにという願いが込められています。そしてまた、その「長興」「妙本」をそれぞれ、かつてこの地に屋敷を構え、初代将軍 源頼朝公、2代将軍 頼家公を支えていた比企一族の党首、比企能員公とその夫人の法号(戒名)として贈られました。比企一族が将軍家と親密になりすぎたことを恐れた北条家によって、建仁3年9月2日、比企一族は討ち滅ぼされました。多くの命がこの地で失われたと伝えられ、その精霊の供養の為に建立されたのが、祖師堂に向かって右手の四基の五輪塔です。また、その両脇の石塔の表には「本行院日学聖人」「輪成院日教聖人」と刻まれています。「本行院日学聖人」は比企一族の末子、比企能本公であり、公は日蓮聖人に帰依し、弟子となりこの地を寄進されました。「輪成院日教聖人」は47代目の住職であり、現在の祖師堂を再建した方でもあります。当時、諸堂再建に力を入れられ、「カナヅチ教師」とも呼ばれ、その偉業は今日に伝えられています。

永縁廟(えいえんびょう)

永縁廟は、比企谷妙本寺歴代住職と當山檀信徒の皆様によって、代々守り伝えられ、永遠に供養し続けてゆくお墓です。四季折々の花が楽しめて、しかも、しずかな佇まいの妙本寺祖師堂前にあって、訪れる人々が皆、お参りしてくださる合祀墓です。
1.祭祀継承者のいらっしゃらない方
2.当山にお墓所のある方でも後継者がなくて永代供養をご希望の方
3.墓所をまだお持ちでない方
等は、どうぞご相談下さい。

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